お米をはじめに炊いた人

ある日お米を炊いている時に思った

最初にお米を炊こうと思った人はどういう気持ちでこの固めの作物を食べれると気づいたのだろうかと

そして、その後、中火で沸騰させて、弱火で水分を飛ばして、蒸らすという行為をした人は
なぜお米を食べることにそこまでの探求心をもってしまったのか

もしかしたらそれはそんなにたいした動機ではないのかもしれない
お米を最初に食べようと思った人はいろんな草木を食べ幾人の犠牲の上でのお米が食べれるということに気づいたのかもしれない
最初にお米を炊いた人は適当に調理して失敗して食べてみたら思ったよりおいしくて「これだ!」と思ったのかもしれない
おいしく食べたいと思った人はただの食いしん坊でおいしく食べる方法を知りたかっただけかもしれない

きっとみんな選ばれてその作業をしていないのだと思う
選ばれる瞬間にはそこまでに意味はないのだと常々思う

大切なのは選ばれてから自分がなにを成し遂げるかなのだろう
選んだ側はやってくれる人ならば誰でもいいのかもしれない

選ばれたということに特別な意味を見出そうとするから挫折した時のダメージが大きい気がする
選ぶという行為に特別な意味を見出そうとするから特別でなくなった時に自分はただの歯車なのだと、
自分の代わりなんていくらでもいると思ってしまうのかもしれない

選ばれることに特別な意味はない
自分の代わりはいくらでもいる

ということを前提に置けば、重要なのは選ばれてから自分が何を成し遂げるかどうかなのだろうと思う
別に自分の代わりはいくらでもいる。
おそらく自分がいなくなっても社会は回る。
でも自分がいたことを、自分が成し遂げたことがあれば、このセラミックなみに傷のつきにくい社会に1ミリ程度の痕跡は残せるかもしれない

昔、私が学生の時に能島顧問がなにかの壇上で話していた言葉が好きだ

「あなたは何をもって憶えられたいか」

これはドラッカーもしドラのドラの人です)が13歳の時に宗教の先生である牧師によって訪ねられた言葉である。
その牧師はこうも言った
「答えられると思って聞いたわけではない。でも五十になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」

私はこの言葉を最初に知った時衝撃を受けたことを今でも覚えている。
そして思わずドラッカーの本を購入しこの言葉を探して、意味を探した。

別にドラッカーのように偉大なわけでも、どこかの経営者のように大きなことを成し遂げたわけでもないので、大きなことは言えない。

ただ、時たま考えてしまう。「自分は何をもって憶えられたいか」
自分はどうあるべきか
別れの時、大学生が卒業した時、死んだとき
自分はどのように記憶されたいのだろうかと時たま考えてしまう

お米を炊いた人はお米を炊いた人として
おいしくアレンジした人はおいしくアレンジした人として
別に個人の名前が残らなくてもその人の手法は記憶されている
ライト兄弟のように名前が残らなくとも、なにかで記憶されればいい

ふと考えてみてほしい「自分は何をもって憶えられたいか」と

松本