無駄のある家

今週末、完全休暇で東京都町田市にある白洲次郎吉田茂側近)の旧邸「武相荘」を訪問した。
たまたまランチにいこうということで訪れたのだが、
屋敷に掛かっていた本の一節が結構響いたので、ブログに書こうと思う。(決して手抜きではない)

家を買おうと思ったことはないが、
将来どんなとこに住むのか、どんなことをしたいのかなどを考えていたりするので、
面白い内容だった。


「鶴川の家を買ったのは、昭和十五年で、移ったのは戦争がはじまって直ぐのことであった。
別に疎開の意味はなく、かねてから静かな農村、それも東京からあまり遠くない所に住みたいと思っていた。現在は町田市になっているが、当時は鶴川村といい、この辺に(少なくともその頃は)ざらにあった極くふつうの農家である。

手放すくらいだからひどく荒れており、それから三十年かけて、少しずつ直し、今もまだ直しつづけている。 もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。
綿密な計画を立てて、設計してみた所で、住んでみれば何かと不自由なことが出て来る。
さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、人間が建築に左右されることになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。

俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。
牛が住んでいた土間を、洋間に直して、居間兼応接間にした。床の間のある座敷が寝室に、隠居部屋が私の書斎に、蚕室が子供部屋に変った。

子供達も大人になり、それぞれ家庭を持ったので、今では週末に来て、泊る部屋になっている。あくまでも、それは今この瞬間のことで、明日はまたどうなるかわからない。

そういうものが家であり、人間であり、人間の生活であるからだが、原始的な農家は、私の気ままな暮らしを許してくれる。三十年近くの間、よく堪えてくれたと有がたく思っている。」

(「無駄のある家」(『縁あって』白洲正子2010PHP))


こういう感覚は今はほとんどないし、「家を買う=完成品を手に入れる」という意識が強い。
まったく家がほしいとは思っていないが、こういう感覚は大事にしたいと思っている。

(片岡)