卒業していくみんなへ(のじま)

先日、BrainHumanityをこの春に卒業していくみんなの送別会が行われた。
毎年、最後に私から卒業生のみんなにメッセージを話しているのだが、今年は卒業生のスピーチが長引いて、私のメッセージを届けることができなかった。
なので、ここで卒業生のみんなにメッセージを届けたいと思う。

先日、FBなどである企業の人事部の話が流れていた。テーマは社会人と学生の評価の違いだった。

ブログ:人事部が学生に「学校」と「会社」の評価のちがいについてホントのところを説明した

筆者曰く、社会人としての評価は努力ではなく、成果をもとに行われる。評価の軸は必ずしも一つではなく、多様である。評価自体も公平ではなく、不公平だ。
その記事を読みながら、確かにとうなずくところが多かった。

BrainHumanityという組織は学生が主体となりながらも、社会に対してサービスを提供し、この社会を少しでもよくしようと日夜、努力を続けている。
卒業生たちはよく理解していると思うが、社会とつながるなかでは、必ずしも学生の論理が適用される訳ではない。

長きにわたる学校生活は、学ぶことが基本だった。「学ぶ」の語源は「まねぶ(真似ぶ)」であるという説もあるが、まさしく学びとは先達の歩みをなぞりながら、それを真似ることである。
学校での学びにはしばしば例題というものが登場し、一つ一つの問題について、解き方を学び、それを応用することが求められた。
つまり、先達が歩んだプロセスを自らも歩むことを意味する。その点において学びではプロセスが重要視される。
先達が示すプロセスをしっかりと真似、それを脳裏に刻み込むことが評価される。

しかし、卒業生たちがこれから出て行く社会は、その学びの上に、自らの思索や思考が問われることになる。
それはある意味において、創造であり、開拓でもある。
先達のいない地平の中で、自らの足跡を残すということでもある。
そこでは、必ずしもプロセスが重視される訳ではない。むしろ、プロセスを生み出す人間が評価される。

この過酷な組織のなかでは、しばしば「プロセスは問わない」とか、「結果がすべてだ」という言い回しが使われる。
それは別に違法なことや反社会的な行為を進める訳ではない。
これまでのやり方や考え方に拘泥するのではなく、今までにないやり方に挑戦し、試行錯誤しろという意味だ。

社会の中では成果が評価される。
そして、徹底して成果にこだわることのなかで、本当の学びや成長がもたらされるのだろうと思う。

社会の中では誰かが優しくやり方を教えてくれる訳ではない。
これまでにないやり方や考え方を自らの頭脳で生み出すことが求められる。

この組織の卒業生たちは、少なからず、学生生活のなかで、その体験をしてきたと思う。

これからの道のりは決して、安楽なものではないかもしれない。
むしろ、安楽を目指すような生き方をすべきではない。

困難にあったとしても、それを乗り越える力は、備わっている。

この過酷な組織の卒業生たちのことを信じている。(のじま)