5年間ありがとうございました

本日をもって、5年間の契約期間を終え退職することとなりました。
これまで通り軽いノリで書くのか、ハートフルな涙を誘う雰囲気で書くか迷っています。書き連ねた結果どうなるでしょうか、乞うご期待!

社会人2年目の夏、能島理事長に、
「ブレヒューに職員として戻ってこないか?」
とお誘いを受けました。個人的には社会課題に対して大した志もなく、その当時は今の妻と婚約し、勤めていた会社が全国転勤で仙台にいたため、
「彼女が仕事辞めてこっちに来て専業主婦になったら、俺ずっと仕事辞めれねぇ・・・。」
という鶴巻課題の方が重大でした。また少し体調もよくなさそうだったことや、お世話になったブレヒューに何か恩返しをという思いもあり、前職の方々には本当に不義理をしましたが関西の地に戻ることを決めました。無論、親には罵倒され、ほぼ相談せず事後報告した妻とも修羅場になりました。

入社して半年、東日本大震災が起こりました。8ヶ月前までいた宮城県で甚大な被害が出ました。関西でもNPOの有志で先遣隊として現地に行くことになり、諸先輩方に比べたら圧倒的に足りない能力でしたが、「地理は詳しいから役に立てるはず。」と懇願して行かせてもらうことになりました。
26年生きてきて、この時ほど生や死について考えたときはありませんでした。当たり前の日常が当たり前に続いているのではないということを思い知らされました。1週間ほど先遣隊で被災地に入り、返す刀で中高生マレーシア植林ワークキャンプの引率に行き、最終日に片耳が聞こえなくなりました。医者には身体を休めた方がいいと言われましたが、2日後に再び被災地に行きました。気持ちはしんどくなく、張り詰めた糸のまま極限状態の1ヶ月が続きました。

戻ってきてからもつかの間、今度は東京で行われている「カタリ場」という高校向けキャリア教育の関西版を当法人で立ち上げるために、学生達と奮闘しました。同時に夏のキャンプの計画も一緒にやっていたので、自分が何をしているのかよく分からないまま1日1日が過ぎていくという感じでした。

そんな中、夏終わりには第一子が生まれ、改めて生きること、教育、子育てということを考えるようになりました。

2年目以降は、キャンプ系の既存事業や、実施校が増え続けるカタリ場、そして復興支援を担当していました。そんな中、前任の奥野職員から、行政との協働事業、「生活保護世帯向け学習支援」を引き継ぐことになりました。
最初は全く興味がありませんでした。そもそも以前の職場で、教育には関心があるが学問にはあまり興味がなかったことがよく分かりましたし、個人的な心情として社会を変化させるためには、起業家育成等のトップ層の支援でも、厳しい境遇の人々を救う支援でもなく、真ん中の層が変化しないと意味がないと思っていたので、特にカタリ場にはとても価値を感じてやっていたという状況だったからです。そんな中「お前は以前の職場の経験が活かせるから」という理由でやることになりました。かなり嫌々でした。

しかし、知らないということは罪だとこのときほど思ったことはありません。本を読み、人に聞き、子どもの貧困ということを知るにつれ、社会の矛盾をまざまざと感じました。せめて自分が出会える人はなんとかしたいと思いました。前職で教えてもらった「誰でもいつでもやり直せる」という大原則を胸に、指導内容を整え、どんなに学力が厳しくても少しずつやり直せる学習方法を、現場に入る職員や学生チューターと模索しました。各所で生徒の変化が現れ、手応えを感じることができました。この活動が貧困の連鎖の解消に繋がっているのかはまだまだ分かりませんが、国の施策として続いていってほしいと思います。

こうやって多くの課題にぶつかる中で、改めてこういうことが起きる原因は何なのかという根本的な問いを考える時間が増えました。多くの社会課題は、労働や生活の在り方と密接に繋がっているような気がしています。仕組みで解決するという積極的な攻めのやり方と共に、衣・食・住、そしてお金との関わり方を見直すような一歩引いたやり方も同時に必要なのではないかと思います。

個人的にはまだぼんやりとしたものがあるだけで具体的なものが何もないのですが、当法人で学んだ「考え続ける」ということを諦めず、一歩外に出て動いていきたいと思っています。

5年間本当にありがとうございました。(鶴巻)