13年前のこと

 
 明日であの日から13年を迎える。
もう「あの日」といってもピンとこない学生や子ども達も多い。
しかし、「あの日」は僕たちにとっても、僕にとっても忘れられない日なのだ。
あの数十秒の揺れによって、6000人を超える人命が失われ、街は廃墟と化した。
その中で僕はいろんなことを学び、僕たちは動き始めた。もうあれから13年が経つのだ。


 あのとき、僕は兵庫区の自宅で眠りについていた。
その日は朝から日本国憲法の授業があるので、早めに起きようと思っていたのだが、
それより先に揺れによってたたき起こされた。
僕の布団の横にあったテレビが僕の上に落ちてきたのだ。
当時、19歳。生まれてから19年間、神戸には地震が来ないと
親からも祖母からも聞かされていて、
事実、それまで地震に出会ったことはなかった。
あの震災の少し前に宮城県で大きな地震があったのだが、
それも人ごとのように思っていた。
なので、揺れを感じても、それが地震だとは全く思わなかった。
マンションの下の階でガス爆発でも起きたのだろうと思っていた。
まだ、周囲は真っ暗だった。母親はタンスの下敷きになっていたが、自力ではい出してきた。
やがて日の出が近づくと、街の様子がぼんやりと浮かびあがってきた。
自宅があったマンションの9階からは、西の方向に長田区を見渡すことができた。
長田からはすでに煙が何本が立ち上っていた。
それを見て、やっとあの揺れが地震であったことを確信した。それが13年前の早朝のことだった。


 そして月日は流れ、いまに至る。
あの年に生まれた子どもはもう小学校を卒業し、中学生になっている。
いま僕たちがキャンプに連れて行っている小学生はみんなあの震災以降に生まれた子ども達なのだ。
13年前、僕たちは仲間とこう約束した。
「震災の年に生まれた子ども達が中学校を卒業する2010年までは、なんとしてもこの活動を続けていこう。」
約束の年まであと2年。街は様変わりし、人々の間からも震災の記憶は薄れていっている。
でも、僕たちの原点に「あの日」があることは決して忘れてはいけないことだと思う。


 今年、震災直後のキャンプに来ていた子どもが、BrainHumanityの役員に就任した。
彼は大学1年生。すでに何人もの子ども達が成長し、僕たちの仲間としてがんばっている。
瓦礫に囲まれたあの街の中で、僕たちは一つの夢を描いた。
それは、いま子ども達を支えれば、やがてその子ども達は僕たちの役割を引き継いでくれるということ。
その夢は少しずつ、しかし確実に実現しつつある。
震災によって失われたものは言葉に言い表せないほど大きい。
でも、その大きな犠牲の上に、生まれてきたものもある。
僕たちはそれをこれからもずっと大切に育て続けたいと思う。
それが多くの犠牲の中で生き残った僕の責任だと思っている。(のじま)

阪神・淡路大震災から現在に至るまでのBrainHumanityの歩み
阪神・淡路大震災からのBrainHumanityの歩み