大人は成長の機会を奪っているのかもしれない

最近「子どもがかわいそうだから、自分たちがなんとかしないといけない」という大人に何人か出会った。

もちろん過酷な状況で暮らす子どもたちもいるのも事実であり、
自分の力になれることはないかと思うことはすごいことだと思う。

ただ、だからと言ってなんでもかんでも「やってあげる」ことが必要なことだとは全く思わない。

僕の好きな漫画にドラゴン桜という漫画がある。

その中で、
「あたなは教師で生徒と無人島に遭難した時に、あなたはどうしますか?」
という一節がある。生徒は魚の釣り方を知らない。

あなたならどうするだろうか?

漫画にはこう書いてあった。
「魚の例で言えば釣ってあげるのではなく
釣り方を教えるのがコーチングだ
ヘルプは釣ってあげること
無条件で助けてあげることだ
ヘルプだとその場はしのげても問題は解決されず
逆に大きくなるかもしれない
一方サポートによって釣り方を教えられた人は
将来的に自分で船を作り海へと漕ぎ出し未知の魚を釣るかもしれない
教師と生徒、親と子、上司と部下このような関係ではサポートがのぞましい」

BHのやり方でいえば、魚の釣り方すらも教えられないのだろう。
釣り竿を渡され、「まぁ頑張れ」と言われる見守られるだけなのかもしれない。

ただ、きっと生きるために必死に考えるのだろうと思う。

画期的な釣り竿を開発するものもいれば、
時間やえさによって効率的な釣りをするものもいるかもしれない。
釣りよりも他の食べ物に精を注ぐ人もいるものもいるだろう。

人生においてこれは完璧だという成功法なんてない。
だからこそ、
自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。周りにあるヒントから納得できる形を探していく。

僕たちにはきっと大したことなんてできない。
強いて言えば、ずっと見守り続けて、「お前の好きにやってみなよ!」言い続けるくらいだろう。

魚をずっと与える大人たちは、子どもの成長の機会を奪っているのだろうと思う。
今の子どもたちの現状だけでなく、
支援者としては、子どもたちの出口もしっかりと考えないといけない。

4月に入り、新しく出会う生徒もたくさんいる。
僕の頭の中はこの子にとって、1年後どうなっているのだろうかというわくわくと
どういう見守り方がいいのだろうかで頭がいっぱいである。

(片岡)