事務次長・片岡 一樹がまた私のことをブログで侮辱しているようだ。

そろそろ来年度人事の時期なので、ブレヒュー東日本事務局に網走出張所でも作って、そこの所長にでもしてやろうかと思う。

ただ、私への質問もあるようなので、少しだけ回答しておく。

(以下ブログより転載)
理事長に見て欲しいものをピックアップしてみた。
是非感想が聞きたいものだ。
○アニメ編
PSYCHO-PASS サイコパス』というアニメを知っているだろうか。個人的に好きなアニメなのだが、『踊る大捜査線』の監督である本広克行が手がけた作品だ。漫画が売れたからアニメになるのは普通であるが、この作品はアニメから始まり、人気のため漫画になるという出世を果たした。そして、第二部、映画化へと進んでいった。2012年の当初からみているがとてもおもしろい。
ストーリーはウィキさんを下記に載せているが、是非一度は見て欲しい。大学時代法学部であった理事長がどんな見方をするのか、気になったりもしている。
【ストーリー】
包括的生涯福祉支援システム「シビュラシステム」が構築され、人間のあらゆる心理状態や性格傾向を計測する値、俗称「PSYCHO-PASS」(サイコパス)が導入されて間もない未来世界(西暦2112年)。 大衆は、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。 その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測されており、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた。 しかしシュビラが裁けない犯罪者が現れる。犯罪とはなんなのか、そんなお話。

(能島の回答)
確かに法学部では刑法や刑事政策学のゼミに属していたので、興味のあるテーマではある。
しかし「犯罪係数」というものによって犯罪行為が行われていなくても「潜在犯」とされるという設定には承服しかねる。
なんだかロンブローゾの「犯罪人論」を思い出す。
ゼミでは不能犯の可罰性を主張し、教授からは「能島君は新派的だね」と言われた私ではあるが、実行行為もない段階で犯罪を認定することは、広範に刑罰の範囲を認めることとなり、近代人権の概念とは相容れないと言わざるを得ない。


(以下ブログより転載)
○音楽編
森山直太朗の「生きてることが辛いなら」。2008年にこの曲がリリースされて、賛否両論をよんだのを覚えているだろうか。その中の歌詞に「生きていることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい。」というものがある。これが自殺を煽るのではないかとメディアで話題となった。この曲を理事長が聴くとどういう論理的な思考になるのか。楽しみでしかない。

(能島の回答)
私はどのような場合でもあっても自らの命を絶つことは許されないと思います。
したがって、「生きてることが辛い」としても、自殺は到底、許されるものではないと考えます。
自らの天寿がいち早くまっとうされることを祈ることは特に問題はないと思いますので、「生きてることが辛いなら、いっそ自らの天寿が一刻も早くまっとうされることを祈ればいい」という歌詞に変更すべきだと思います。(字余りですが)


(以下ブログより転載)
○スポーツ編
スポーツを見て、理事長は感動するのか?涙をみせるのか?かなり疑問である。(というよりも涙する理事長を見てみたい!)
WBC2009決勝のイチローのヒットシーン、2002年秋場所貴乃花VS朝青龍ジョホールバルの歓喜、もうなんでもいいので、彼の目から流れるものが見てみたい。

(能島の回答)
結論から申し上げると私がスポーツで涙を流したことはこれまで一度もありませんし、今後もおそらく極めて高い確率でないと思います。
もし、万が一、私が結婚し、もし万が一、私に子どもが生まれ(つまり、この時点で1億分の1の確率)、その子どもが何らかのスポーツに深く熱中し(父親がスポーツ嫌いなので子どもがスポーツをする確率は極めて低い。)、その子どもの引退試合などの記念すべき試合において一定の活躍をし(父親がスポーツ音痴なのでその子どもがスポーツで活躍する確率は極めて低い)、その試合の結果によってその子どもが号泣しているような状況であれば、私もともに泣く可能性は否定できませんが、それが現実にものになる確率は、1兆分の1くらいの確率ではないかと思います。
しかもそれは自分の子どもの長年にわたる努力に対する共感によるものであって、必ずしもスポーツに対する感動による涙ではないような気もします。
そもそも自分とはまったく無関係のプロのスポーツ選手がなんらかの活躍や奇跡的なプレーをしたところで、私にはなんの関係もないわけで、それを理由に泣くということはあまり考えられません。
もちろん、そのスポーツ選手の生い立ちやそれまでの努力などを熟知していれば、それに対する敬意や共感などが生まれ、それに対して涙を流す可能性は絶対にないとは言い切れませんが、そもそもどのようなスポーツであっても趣味やレジャー、余暇活動でしかないと考えているので、それらの選手の生い立ちや努力について興味を持ち可能性も著しく低いように思います。(のじま)