資本主義の限界と若者の政治参加について

先週末は新入生を対象としたフレッシャーズキャンプが行われました。

このキャンプでは、2日目に各班で竹1本を利用し、流し素麺のレーンを作るというとてもワクワクするプログラムが用意されています。一方で、13班合計120名という大所帯のため、流し素麺の流れる水をどうやってすべての民に行き届けるかが至上命題となります。我々は塩ビパイプを利用し「分水器」というものを開発し、使用しています。

こんな感じで塩ビパイプを組み合わせ、13班分の水の口を作ります。これが中々難しく、水道水を6〜7つに分岐させると、水道の蛇口に近い手前のパイプ口の水の量が必然的に多くなります。そのため、口の角度を上げなるべく水が流れないようにし、奥のパイプ口はほぼ真下を向くようにして水量を出せるようにするという職人芸の調整が必要となります。

角度を調整する私。職人のようです。各班が竹レーンを仲良く作っている間に調整し、どの班もほぼ同じ水量が出るようにしました。分水器界の安藤忠雄と呼んでほしいところです。そして司会からも「分水器を触らないように」とアナウンスをしてもらいます。こうして各班の竹レーンが配備され、すべての民が幸福となる時間が始まります。

しかし、分水器を触る不届き者がいるのです。不届き者という言葉の10倍美しくない言葉を使って罵りたい気持ちになります。誰かが少しでも触ると、またすべてのパイプ口の角度を再調整しなければいけません。それにより、真面目に言いつけを守り、竹レーンにうまく水が流れるように調整してくれた班が不幸を被ることになります。これは断じて許すまじです。

一方で、これは資本主義の縮図ではないかと思うのです。各班(国)は、利益を最大化するためにパイプの口を下げ水を勢いよく出し、素麺がスムーズに流れる努力をします。他の国のことなどおかまいなしです。フレキャンのリーダーも、自分の班の参加者にいい思い出を残したいと必死にがんばっているがゆえの行為と考えれば、それも仕方のないことなのかもしれません。私が「すべての地球人に平等な幸福を。」と思いパイプ口を調整したことも、ただの幻想なのかもしれません。

またこのパイプ口を見て、税金の使い道も考えました。水(税金)の量は決まっています。どう分配するかが政治家の仕事ですが、やはり投票率の高い高齢者のための政策には、パイプ口の角度を下げ、水(税金)がたくさん使えるようにします。投票に行かない若者に対しては、特に報いる必要もないので水が出ないようにします。それは残念ながら当然の帰結です。子育てや教育、若者への社会保障という竹レーンにたくさんの水を流してほしいのであれば、我々は積極的に投票に行き、力を持たないといけません。

キャンプ場のど真ん中で塩ビパイプの調整をしながら、ついつい経済や政治について考えを巡らせるインテリジェンスな側面を見せる時間となってしまいました。(鶴巻)