私が新入生だった頃(能島編)

 なんだか今週は「私が新入生だった頃シリーズ」になったらしいので、私も新入生の頃のことを思い出しつつ、少しだけ書いてみようと思う。ただいかんせん私が新入生だったのはもう18年ほど前のことなので、記憶もおぼろげではあるのだが。と書きつつ思ったのだが、そういえば今年で37歳になる私は大学入学までと、それ以降で同じ時間を生きてきたことになるんだ。なんだか、感慨深い。
 さて、私が関西学院大学法学部に入学したのは1994年4月のこと。といっても中学から関学に通っていたので、新入生といってもあまり新鮮みはなかった。周りには高等部からの友達がたくさんいたし、大学に入ってもそんな友人達とつるんでいたので、進学と言うよりも進級に近い気分だった。大学に入ってからの感想は「つまらない」の一語に尽きた。授業もいわゆる大講義ばかりで大して面白みもなかったし、内容もそれほど難しいものではなく、授業に出ていなくても教科書を読めばそれなりに理解することができるようなものばかりだった。
 一応、法学部自治会が主催する新入生歓迎キャンプに参加したり、司法試験を目指していたので司法試験研究部にも入ったりしたが、特に刺激もなくつまらないことばかりだった。そもそも社交性は極めて低いので、他の新入生達が新歓コンパでバカなゲームをしたりしているのを冷ややかな目で見ていた。
 ただ、こんな日々を4年間も過ごすのはあまりに無駄なので、自分でもなにかをやろうと思い、友達とともに家庭教師サークルを立ち上げることにした。立ち上げたメンバーは全員、高等部からの友達。設立は94年の5月1日だった。立ち上げた団体の名前は「関学学習指導会」いまのBrainHumanityの前身となる団体だが、当時はこんなことになろうとは予想もしていなかった。とりあえず大学近くに下宿していた友達のワンルームマンションを事務所代わりにして、新聞に広告を打ったりして、お客さんを集め、自分たちが家庭教師に行った。ぼろ儲けはできなかったが、バイトには困らなかった。
 一方で、高校時代から「クイズ」をやっていたので、友達と一緒にクイズ研究会を立ち上げ、大学祭でイベントなどもした。徐々に大学が楽しくなってきた。そのころになってやっと大学という場は、与えられるのを待つようなところではなく、自由に自分たちでなにかをやっていくところだということに気づいた。それまでの学校生活のなかでは多かれ少なかれ、何をするにも教師の管理下におかれた。高等部は全国でもかなり自由な校風の学校だったといまでも思うが、それでもなお教師の管理下から逃れることはできなかった。
 しかし、大学はそうではなかった。自分でサークルを立ち上げようが、ビジネスをしようが、法律に違反しない限りはなにも縛られるものはなかった。そんな環境がとても面白かった。そして、その約1年後に阪神・淡路大震災が起きて、現在のBrainHumanityの原形が形作られていくことになる。
 確かに最初はつまらないと思っていた大学生活だったが、自分でなんでもできるのだという感覚を理解した瞬間、そこは天国のような場に変わった。特に勉強をしなくても単位は取れるし、出席する必要もない。教員は研究と教育以外のことは無関心で、学生の活動は放任。それはある意味においてモラトリアムである。
 以前、『モラトリアムで歩きだそう―大学時代を楽しむための17のテキスト』という本にも大学時代のことがとりあげられたが、私の大学時代は本当にモラトリアムだったと思う。そして、そのモラトリアムがなければ現在の自分はいなかったのだろうと思うし、いまの大学生に対してもモラトリアムを精一杯、生きていくための基盤としてBrainHumanityの仕事をしているのだと思う。
 少々長くなってしまったが、自分の新入生の頃のことをふり返るとき、それはある種のターニングポイントであったことに気づく。いまの新入生達はこの4年間のなかでどんなターニングポイントに出会うのだろうか。(のじま)

モラトリアムで歩きだそう―大学時代を楽しむための17のテキスト

モラトリアムで歩きだそう―大学時代を楽しむための17のテキスト