個人ブログからの転載

実は、私は個人のブログを持っていて、たまに書き込みをしているのだが、今日は、そのブログから転載する。(のじま)

(以下、能島の個人ブログより転載)
■タイトル

護憲=平和主義という錯覚


■本文

昨日、関学のゼミでしゃべっていて、ふと思った。

あまりに多くの人々が当たり前だと思っていることには、
実は丁寧な説明がされていないということ。

それはあるゼミ生の発表の時にのコメントでいったのだが、
そのゼミ生は、政策立案のプレゼンで、
中心市街地の活性化というテーマを選んで、
それを発表したのだ。

なかなかプランとしてはおもしろかったのだが、
そもそも、なぜ中心市街地が衰退してはいけないのか
という説明がなかった。

確かに、中心市街地の活性化というのは、
NPOでも、行政でも非常に重要なテーマだから、
中心市街地は活性化するのがよい、と
ステレオタイプ的に考えてしまうのだが、
でも、それがそもそも必要なのかということから
立論しないと、その論理はとても脆弱だと思う。

そのときに、たとえでふと思いついたのが、
憲法9条を巡る、護憲、改憲論議だった。

憲法9条の堅持を主張する人たちは、
憲法9条を守ることが、平和に直結すると信じている。

でも、なぜ憲法9条が、
平和をもたらすのかということについて、
丁寧な論理的説明を聞いたことがない。

一方、改憲論者も、日本が軍備を備えることによって、
軍事的な抑止力や均衡を維持し、
平和を実現しようとしているのではないか。
(もちろん、そうでない人もいるだろうが)

でも、ほとんどの論調は、
護憲は平和主義で、改憲はそうでないと
あたりまえのように考えている。

しかし、この議論の本質は、
護憲か、改憲かということではなく、
憲法9条がある方が平和を維持できるのか、
それとも憲法9条を改正した方が平和を維持できるのか
といった、比較の議論だろうと思う。

でも、護憲=平和主義という錯覚に陥った人々は、
しきりに平和のために憲法を守れという。

私が聴きたいのは、そんなスローガンではなく、
どのような論理でそれが達成できるのかといった説明なのだ。

市民活動やボランティアの活動も、
その必要性も議論されることなく、
「善」だとされたり、「必要」だとされたりする。

でも、重要なのは、それが本当に「善」で、
「必要」なのか、
論理的に考え、それを説明することだろうと思ったりする。

BHは、BHのイベントは、
それができているのか。

少し自省する。

(転載終わり)