希望はないのか?

 実は、今日は激しく怒っている。怒っているというよりも、あきれているといったほうが適切かもしれない。 今日、とあるシンポジウムにパネリストとして出席した。テーマは「学校週5日制をいかに活かすか」。今年から兵庫県の委託で「子どもたちの放課後週末活動促進事業」を展開している当会にとっては、うってつけのテーマであった。しかし、ふたをあければ、その話題はほとんど出なかった。もっとも、私が怒っているのは、そのことではない。 コーディネーターが、あまりに強引すぎるのだ。このシンポジウムでは、5人のパネリストがそれぞれ10分程度、自分の活動や考えを発表し、最後にコーディネータが総括するというかたちで行われた。 しかし、コーディネーターの総括が、総括ではなく単に自分の持論を一方的に主張しているに過ぎなかったのだ。ある統計や学説を引いて「いまの日本の子どもたちは希望を持っていない」「テレビゲームのやりすぎは切れる子どもを作っている」「日本の高校生の80%以上が、避妊さえすれば性交してもよいと考えている」「日本の教育は、進駐軍占領政策により崩壊した」などと「総括」し、そしてシンポジウムを終えた。別にそれぞれの主張の是非を論じたいのではない。ただ、それまでに行われたパネリストの発言を十分にふまえず、あたかも他のパネリストが同様に考えているとの印象を観客に与えながら、自説を唱え、それに対してパネリストとの議論や反論も受け付けず、シンポジウムを終える、この強引なコーディネートに激しく憤っている。 シンポジウムでは反論の場が、与えられなかったので、ここに書くが、私はいまの子どもが希望を失っているとは思っていない。ただ、「希望を持っている」と他者に答えることがはばかられているのではないかと思う。少なくとも、いまの大人たちを自分の将来像として見たとき、それを「希望」とすることには躊躇があると思う。子どもと自分を同視することは危険だが、少なくとも私はそう思う。 大人達は「いまの子どもは希望がない」という。そんな嘆くだけの大人を見て、それに希望を持っていると堂々と他者に答えられるのだろうか。 村上龍は『希望の国エクソダス』で、不登校の子どもたちが独立した国家的な組織を作る姿を描いている。そのなかにこんな言葉が出てくる。「この国にはなんでもある。希望以外は。」確かに、今のこの国には、希望がないと感じられるのかもしれない。しかし、彼らは自ら動くことによって「希望」を見いだしていく。希望を見いだすこと、希望を作り出すこと。それは内なる希望であり、強い意志でもある。 センセーショナルな報道や情報を短絡的に受け止め、自分を振り返ることもなく、単にいまの子どもを嘆くだけの大人は、そろそろ変わる必要がある。 どうやら最近の青少年健全育成とやらで、よく言われている標語にこんなのがある。「大人が変われば、子どもも変わる」言い得て妙だと思う。しかし、それを唱えるだけでは、何も変わらない。嘆くよりも、自らアクションを起こさなければなにも変わらない。どうやら大人の教育を始める必要がありそうである。(のじま)